石舞台古墳は、紀元626年に亡くなった蘇我馬子の墓と考えられています。
私が手を触れている天井石は大きい方で77トンもあり、石室は約30個の花崗閃緑岩でできており総重量2300トンあるといわれています。
石舞台古墳は、昔は土をかぶった正方形の墓でしたが、写真のように現在では石の部分が出てきております。
横穴式石室の中には、石棺がおかれて埋葬されていました。石舞台古墳では、様々な形の原石を積んだような石室ですが時代とともに表面が綺麗に磨かれた切石を積んだ石室へと変化していきます。石室の高さは、石舞台古墳で4.7m、高いものでは5.7mもあります。
1400年前から巨大な石を運搬し、組み立て硬い花崗岩をノミを使って加工していました。巨石の使用や加工技術など古墳構築に注がれた労働人口は他を圧倒するものです。
詳細は 石舞台古墳解説書 ~巨大古墳築造の謎~ としてまとめられております。コンピュータグラフィックスで分かりわかり表現されております。当時から大変高度な技術が使われていたことがわかります。
益田岩船は、飛鳥地方に点在する石の中でも極めて巨大なもので、上部には人口の四角い穴が2つあけられており、推定800トンもある巨大な構造物です。
極めて硬い花崗閃緑岩に四角い穴を2つも開けた形で、現在も放置されてたままになっています。1つの穴には水がたまっていますが、もう1つの穴には水がたまっていません。このことより、亀裂が見つかったため放置されたと考えられております。
時代推定と形状から、今から1400年以上前の古墳の石棺式石室であったと考えられています。石棺室石室は、石室と石棺のあいのこのようなもので、大きな石をくり抜いて作る横穴式石室です。
いずれにしても、日本の国ができた頃から、巨大な花崗閃緑岩を切削して墓を作っていたのです。
天武・持統天皇陵は、八角形の墳丘でできています。地下には、石舞台古墳と同じような石室があり、木棺と骨壺が納められています。
持統天皇は、天皇としてはじめて、自身の火葬を命じ、骨が絶対になくならないように何重もの器に入れ、鎖に固定し、夫の棺の横に置くように命じました。永遠の時を刻むために、花崗岩を敷き詰めた石室を作ったのです。
そして、千三百年以上経過した今でも、宮内庁で墓が管理されれいます。
持統天皇は、里中満智子さんの歴史スペクタクル漫画「天上の虹」の主人公となって生き続けています
巨大な石は、崇拝の対象となってきました。
生石(おうしこ)神社は、播磨国風土記では約千四百年前の聖徳太子がいる頃、社伝では二千年前の崇神天皇の時代に建てられたと語り伝えられています。
人の手により立方体に加工され、水に浮く石としてご神体として崇拝されてきたようです。当時は、このような加工をすること自体が神業だったのかも知れません
約1300年前の奈良時代には、お寺の灯を守るために灯籠が作られました。
當麻寺にある日本最古の灯籠は、柔らかい凝灰岩で作られていますが、加工技術が発達していなかったので木と石の複合品でした。
この頃、木や金属で作っていた仏像も石で作るようになっていきます。
約1000年前の平安時代後期から、石の鳥居も作られるようになり、江戸時代には現在のようなスマートな形の鳥居があちこちに作られるようになります。
石灯籠も競って寄進され、富の象徴として後世に自分の名前を残すために作られました。
手洗のための水盤も競って大きいものが作られています。宇佐神宮には花崗岩(徳島みかげ)で作られた日本一の水盤があります。
京都の宮廷文化と交わりながらわびさびの世界を作って行きました。
そこには、必ず石が使われています。自然と人工物のおりなす不完全の世界を堪能することができます。
禅とわびさびの文化を集大成した建造物です。四季折々が取りなす自然空間を巧みに取り入れた深い精神文化の造形といえます。
そこにも、花崗岩の原石や加工したものが巧みに取り入れられております。
15個の石が配置されているだけですが、どこから見ても全ての石が見えることはありません。完全ではない一歩手前のものに美しさや悟りの境地を味わうわびさびの世界を描いた究極の建造物です。
十五夜が満月であるように、東洋において15という数字は完全を意味します。
悟りを開いた人以外は、どこから見ても15個の石を見ることはできません。
石を用いて、わびさびという究極の精神文化が表現されています。